日本画会献画運動

1937年07月

日本画会では七月二十三日幹事会を開き協議の結果、同会顧問会員等一点宛の出品を集め、展覧会等の方法に依り売上げを国防献金とすることとした。

第二部会申入れ

1937年07月

文部当局では新文展に就き審査員選定等の問題を考究其の決定を急ぎつゝあるが、審査員に帝国芸術院会員を加へることも考へられてゐるので、前年来之に反対を主張して来た旧帝展系の第二部会では七月二十二日夕丸之内マーブルに委員会を開催し、協議の結果同会としては飽く迄芸術院会員の鑑査に反対することとし、翌二十三日午後小林万吾、辻永の両委員代表として文部省本田学芸課長に面会、其の意向を伝へ尚過日発表された要綱中無鑑査出品寸法制限にも反対の旨を述べて当局の善処を要望した。

オリンピツク東京大会場決定

1937年07月

昭和十五年に開催さるべきオリンピツク東京大会の主競技場建設に関しては、明治神宮外苑競技場改造、千駄ヶ谷拡張、郊外移行等の諸案が研究され、半歳に亙つて決定を見るに至らず幾多の困難を重ねて来たが、組織委員会の希望する外苑改造に就ては、予て反対意見を持してゐた内務当局も六月二十一日に至り条件を提示して容認する意向を示した。組織委員会は同二十二日常務委員会を開き右条件を承認の上許可願を提出、内務省の諮問に応へて之を審議すべく七月七日外苑管理評議委員会が開かれたが、更に若干の追加条件を附して承認することとなり、東京大会主競技場の外苑建設は総ての手続を経て七月十九日正式に決定された。改造に関する条件は大要左の如くである。 一、外苑競技場拡張に要すべき一切の経費は明治神宮に奉納すること、物価騰貴等の為予算超過の場合は更に追加奉納すること、一、スタンド総坪は七千五百坪以内、仮設スタンドを含み高さ七十尺以内、大会終了後は一部を取払ふこと、一、工事の設計並に施工は外苑管理署若くは内務省之を行ふこと、一、競技場の管理、使用に就ては絶対に条件を附せざること、一、東京大会延期若くは中止の場合に於ても外苑競技場として適当と認むる工事は完了すること、一、神社境内に於て行ふを不適当と認むる行為並に設備は之をなさざること、其の他

文部省人事異動

1937年07月

文部省専門学務局長は専任を欠いてゐた所、社会教育局長男爵山川健が七月二十一日附任命された。

帝国芸術院会員招持会

1937年07月

帝国芸術院成立後の初会合として、七月九日夜丸之内東京会館で文部大臣の招待に依る晩餐会が開かれ、清水院長以下五十五会員出席、主人側からは安井文相、内ヶ崎、伊東両次官以下関係諸官出席、文相の挨拶に次で院長の謝辞があり、勧談を尽して午後九時散会した。

洋画家報国運動

1937年07月

鈴木千久馬の主宰する四元荘では岡田三郎助賛同の下に同研究所内に全美術家報国運動本部を設け飛行機献納の目的で絵具の空チユーブを集めること、寄贈絵画を以て展覧会を開き其の売上を献金することの運動を起すこととなり、七月十八日洋画家一般に勧誘状を発した。

オリンピツクポスター及マーク審査

1937年07月

懸賞募集したオリンピック東京大会宣伝用ポスター及びマークの図案審査は七月五日大日本体育芸術協会及び組織委員会宣伝部の審査員に依つて満鉄ビル内で行はれたが、ポスターは優秀作品がなかつたとの理由で九月二十日締切再募集を行ふこととなり、マークは応募一万二千余点の中一等一個、佳作三個の当選を決定、一等作品には組織委員会で修正を加へ他の三個と共に公式に使用することとし、それらの図案を九日発表した。一等当選は大阪の広本大治である。

文展要項審議

1937年06月

帝国芸術院成立後文部当局では之と切離して文部省美術展覧会開催の準備を進め、昨年度文展の欠陥を改め恒久的な制度を樹立すべく考究中であつたが、六月二十九日正午より文相官舎に細川護立侯、岡部長景子、松浦鎮次郎、正木直彦、清水帝国芸術院長の五顧問を招き、文部省からは安井文相、伊東次官、菊池専門学務局長事務取扱代理、本田学芸課長、有光学務課長等出席、当局の原案を提示して各顧問の意見を求め展覧会要項を審議決定して午後四時散会同時に決定事項を発表した。

文展要綱第二回審議

1937年07月

文部当局では六月二十九日の相談会に引続き、文展に関して残された無鑑査の範囲、鑑審査の方法、審査員選任等の問題を審議すべく七月二日午前十時より正午迄文相官舎に細川候、岡部子、松浦、正木、清水帝国芸術院長の五顧問を招き、伊東次官、菊池局長事務取扱代理、本田、有光両課長等出席協議を重ねた。

シアトルヘ日本座敷雛型寄贈

1937年07月

シアトルのワシントン大学附属博物館では各国住宅の原寸雛型を蒐集してゐるが、同地岡本総領事を通じ日本住宅雛型の寄贈を乞うて来たので、国際文化振興会の手に依つて床の間を中心として違棚、書院等附属した雛型を作製し、七月上旬発送同館に寄贈した。

川端竜子帝国芸術院会員辞退

1937年06月

昨年六月帝国美術院会員の辞表を提出した川端竜子は、満洲国旅行中の処六月二十七日夜帰京、帝国芸術院会員の任命を受けぬ意志を表明し、已に発会後である為早速辞表を提出した。

オリンピツク芸術委員会設立

1937年06月

オリンピツク大会芸術競技参加に関しては従来大日本体育芸術協会が当つてゐたが、東京大会の準備に就ては当然組織委員会に統合する必要がある為具体案考究の結果、競技部内の専門委員会として芸術委員会を設置することとなり、六月二十八日組織委員会総務委員会に於て決定した。委員の氏名は左の通りである。 委員長 男爵森村市左衛門、副委員長 渋沢秀雄、委員 吉村忠夫中村岳陵矢沢弦月伊原宇三郎伊藤廉硲伊之助池田勇八高村豊周、成沢金兵衛、土浦亀城、小林政一、小森宗太郎、沢崎定之、諸井三郎、中島健蔵、深田久弥、宮本昌常

大分県美術協会創立

1937年06月

大分県下美術家及び愛好者を会員とし、同県美術界の向上発展並に親睦を図る目的を以て大分県美術協会が結成され、六月二十五日其の創立発会式が挙げられた。会長に大分高等商業学校長石丸優三を推し、毎年展覧会開催の予定である。

帝国芸術院官制及会員発令

1937年06月

帝国芸術院官制及び会員の任命は六月二十四日官報を以て公布されたが、之に先だつて二十三日午前十一時文部省から発表された。新会員は文芸十六名、音楽四名、能楽二名、建築二名、書道二名、又官制附則に依つて帝国美術院長は帝国芸術院長に、帝国美術院会員四十六名は帝国芸術院会員に各辞令を用ひずして任命された。会員数総計は七十二名である。

東皓会結成

1937年06月

予て東京美術学校出身日本画家同志の間で月次懇話会を催してゐたが、邦画壇進展に寄与する目的から新団体東皓会を結成した。会員は岩田正己、服部有恒等二十一名である。

帝国芸術院設置

1937年06月

文部省では帝国美術院に代へて帝国芸術院の創設を企図し予て案を練りつゝあつたが、六月十七日成案を見るに至つたので同十八日の閣議に官制案を上程可決され、直ちに御裁可の手続が取られると共に、官制要綱並びに其の趣旨に関する安井文相談を発表した。

帝国芸術院組織経過

1937年06月

帝国芸術院官制の閣議決定と共に文部省では、予定の人選に基き会員任命の内交渉を開始したが、美術部門に於ては新官制の制定と共に帝国美術院は廃止され、其の院長及び会員は其の侭帝国芸術院長及び会員に任命されることとなる為、昨年六月平生文相の態度に慊らず辞表を提出した侭現在に及んでゐる十数名の帝国美術院会員の中には、今次の組織に疑問を抱いて辞退の意を表した者が多かつた。文部当局では伊東次官初め日本美術院其の他の辞退会員等と懇談を重ね翻意を促す所あり、二十一日細川護立侯は横山大観和田英作、及び梅原竜三郎と会見した上文部当局との間に斡旋し、文部省では同夜別記の如き声明書を発表、一方辞意を表した会員等も過去の行掛りを棄てて参加することとなり、新組織の人選決定を見るに至つた。